2009/04/29

豚インフルエンザ

メキシコで発生した豚インフルエンザの世界的大流行に対する警戒水準(フェーズ)が3から4になった、人間の往来を制限する様な声明は発せられては居ない。フェーズは1~6まであって世界的なパンデミックがあれば国境閉鎖などの強硬措置もあるのだろう、フェーズが3以下に下がって欲しいものである。

 2003年のSARSが発生したときには、思わぬ所でとばっちりを受けた。各国のSARSの発生状況、患者などに対する対応が問題になった、つまり隠蔽する国があり疑心暗鬼になってきたのもその一因だったのだろう。
 
 インドネシアのスマトラ島北部の基地から、LNG(液化天然ガス)を運搬している船のボイラの燃焼装置を修理することになった。
 LNGなどの危険物を運搬している船の火気を使っての作業には、大変な制約があって岸壁に接岸して積み荷のガスを陸揚げしているときなどは作業は絶対に禁止されている。
 
日本での揚げ地である新潟を出港して積み地のスマトラに向かう航海中に施工する事になった。
 2003年4月に作業員を連れて乗船した、出港翌日には通常の航海になったので作業を始め、翌日には作業が終了してしまった、早過ぎる。
 4~5日で修理作業を終わって1週間後には着くであろうシンガポールで下船して空路帰国する予定だった、早く終わったからといって何の不都合もなく感謝されるだけなのだが。

 シンガポールが近づいても船長から我々の下船の話が出てこない、しびれを切らして聞きに行ったら思いがけない言葉が返ってきた。
 SARSが流行しているので、シンガポールでは現地との接触を避けるために食料を積み込まないことにした、従ってあなたたちの下船も中止にする、と言われた。
 密閉されたような状態の船でSARS患者が出たら大変なことになる、我々の下船なんかは問題外なんだろう、シンガポールでの下船を余りにも簡単に却下されたのにはがっかりした。
 スマトラでの下船しジャカルタから空路なんて言うのはゲリラ出没地帯だけに全く望みはなかった。

 結局、2週間仕事もなく時間を持てあます日が続いた、シンガポールで下船予定だったので本も用意して無く毎日食って寝るだけの生活だった。
 帰国して胃の調子が悪く病院に行ったがストレスのせいだろうだろうとの診断だったが、何もしないと云う事もストレスになるようだ。

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2009/03/16

花粉症とペナンの寝釈迦


花粉症とペナンの寝釈迦  「花粉症なんてペナンの寝釈迦を拝んだらすぐに治るよ」、と打ち合わせでマレーシァ行きを渋っている私の横で囁くように云うやつが居た。
 拝んで治るとは思っていないが、何となく背中を押されたような感じでO.Kした。
2004年は2月頃から目の調子がゴロゴロ、シバシバとおかしかった、花粉症なんて縁が無いものと思っていたのだが、自覚せざるを得ない状況になりつつあった頃である。

 1993年に来た時とほぼ同じ3月だった、11年経ったのに見覚えのある顔が数人挨拶に来てくれた。昼食は以前と同じように工場内で摂る、トレイを持って右か左かのセルフサービスの列に並ぶ、右の列は宗教上の理由で豚を食べないなどの制約を受けるマレー系、インド系、左が何にも制約を受けない中国系。
 前回は左右の列の長さは同じくらいだったが、今回は中国系が極端に短い、聞くところによると、出生率の少なさと併せて、高い教育を受けてホワイトカラーになる人が多いのだそうである。

 ペナンのホテルで一晩過ごしただけで花粉症の兆候はきれいに消え去っていた、花粉が飛んでいないところでは、花粉症が無いのは当たり前のことなのだが劇的な変化は有り難かった。

 最初の休日に、「拝んだら治る」と囁かれた寝釈迦を見に行った、予想通りのキンキラキンの釈迦像でそんなに古くなさそうな気がした、もちろん砲丸木の花も見に行った。

2009/03/13

キャノン ボール ツリー



  ペナン島の砲丸木(キャノンボールツリー)
 3月中旬近くなると、桜の開花予報出始めるが私にもこの時期に気になる花がある。日本では見たことがなかった花で南米のギアナが原産地らしいが、私が見たのはマレーシアのペナン島の植物園だった。
 
 1993年2月中旬に初めてペナン島を訪れた、仕事は対岸のバターワースにある繊維工場のボイラ増設工事、私の担当は制御装置を含む燃焼機器だった。宿舎は浅瀬にかかった長い橋を渡ったペナン島、ホテルはCity Bay View Hotel で回転展望台の有るホテルだったから、小さくはないホテルだったようだ。

 観光地とはいえ、東南アジアの景色を見慣れた者にとっては見るところは少ない。
ペナンヒルにケーブルで上ったり、極楽寺とバタフライパークを見るくらい、展望台のある高層ビルのコムターも何回も行くところではない。ただ地下のスーパー「八百はん」(現在は無い)には随分世話になった、日本の食材も良く揃っていた。
 持参の電気クッカーでご飯を炊き、湯豆腐をして納豆をご飯に掛け、マラッカ海峡もおかずにして美味しく頂いたりしました。

 3月7日の日曜日、朝食後にフロントでべっぴんさんと雑談していたら「ボタニカル ガーデンに行ってみたら」と言われた「猿もいるしキャノンボールツリーの花も咲いている」と言うがキャノンボールツリーが分からない、タクシー代も8リンギット(当時1リンギットは47円)位というので行くことにした。

 入園料は無料、猿は20匹くらい居たが箕面の猿のように悪さはしない、適当に人間との距離を保っている賢い猿たち。
 キャノンボールツリーはすぐ分かったが、その木が珍しいと云うより異様と思われる「姿態?」に驚いた。
 一般に花は張り出した枝に付くがこの木は違う、枝は枝だけ伸びて行き花は無い。花は幹の太いところから唐突に出てきた蔓状の枝に咲く、何とも奇妙な木である。
 
 帰国してから和名を調べたら「砲丸木」という何とも味気ない名前、原産地もマレーシアではなかった。
 何か仏教に関するような有り難い和名ではないかと期待していた私は、すっかりはぐらかされたような気がした。